History of Tribal Tattoo
トライバルタトゥーの歴史
トライバルタトゥーの文化は元来、世界中いたる所に存在していました。それぞれの部族内という閉ざされた環境で進化していったことによって、実に様々なデザインと意味を持っています。
デザインは全体的には素朴で抽象的なものが多く見られますが、これらのトライバルデザインには独特の法則性があり、深く、豊かなイメージの世界を感じさせます。
意味的には自分をより魅力的に見せるため、という基本の他に、社会的ステータスを示したり、既婚のサインであったりと様々ですが、宗教的、呪術的に精神世界と深く関わる例も多く見られます。
そのような意味合い持つタトゥーの場合、痛みという要素を抜きにしては成立しないのかもしれません。痛みの恐怖に打ち勝つ勇気、そして実際に彫られている時の忍耐。そういった『痛み』を対価として差し出すことによって「何か」を得るのだと考えられています。
また、多くのトライバルタトゥーにおいて、色として使用されているのは煤から作った黒です。人体に対して安全で、しかもどこにでもある素材です。タトゥーで使用される黒のインクも煤に由来していることを考えると、非常に優れた染料であるということも分かります。
一般的な理解として、黒の塗りつぶしを主体としたタトゥーであれば、トライバルタトゥーと総称される傾向が定着しています。本来の『部族的な』という言葉の意味を離れ、新しくジャンルの1つとして呼ばれるようになったということです。
自分が手掛けるのも、そういった伝統的なトライバルタトゥーにインスパイアされて出来上がる今日的なトライバルタトゥーのひとつです。したがって、そこに発生する意味なども、より個人的なものであり、自由な発想に基づいています。
マルケサス諸島のトライバルタトゥーのデザインはマケージャスタイルと呼ばれ、部族ごとに決められたモチーフを持つ総身彫りですが、黒の面積が大きい直線的なパターンが特徴的です。
サモア、トンガから始まりポリネシア全域へと広がって行き数千年にもわたって進化を続けていったトライバルタトゥーの文化は西暦200年頃にマルケサス諸島に至り大航海時代後のヨーロッパ人による入植にともなう終焉までの1000年以上の期間にさらなる発展を独自に遂げ、ポリネシア芸術としてその輝かしい一つの頂点といえる隆盛期を迎えたと言えると思います。
ほとんどの者が全身を覆うというところまで進んだタトゥーの面積が物語る文化としての大きさ、あらゆる制約から自由になったかのような豊富かつ複雑なトライバルデザインのバリエーション、そしてそれらの表現をすべて可能にした精巧な技術の熟成。
これほどまでの文化にもかかわらず、多くの研究者が資料を残せるぐらいの時代までキリスト教宣教師の布教活動に抗いながらも細々とタトゥーが存在していた他の島々と比べて、非常にあっさりと途絶えたような印象があるのですが、そのことをマケージャトライバルデザインの、日常生活に関わるありとあらゆる物をデザイン化してしまうような奔放さと合わせて考えると、当時のマルケサスの人々にとってのタトゥーとは因習的な重い要素からはすでに解き放たれ、最もカッコいいファッションというぐらいの領域にまで一般化していたがために、流行したものほど跡形もなく消えてしまうというポップカルチャーのように、西洋文化という新しいファッションにいとも簡単に取って替わられたという側面があったのではないだろうかなどと感じます。
タトゥーという言葉の語源はタヒチ語の『タタウ』から来ています。トライバルタトゥーのデザインはマケージャスタイルだとも言えますが、曲線がせめぎあうような形に変化を遂げ、黒の面積が小さくなり、線がより複雑な構成になるなど、伝統的なマケージャスタイルとはだいぶ違った印象の、独自のタヒチスタイルです。
植民地化されトライバルタトゥーを失った他の島々と同様、タヒチにもまた一度は失われてしまった彼等のタタウとそれを取り巻く精神世界がありました。タヒチでは聖なる力『マナ』を備え持った人は、そのような力を持たない人々にとっては影響力の刺激が強すぎて危険な存在とされ、『タプ』と呼ばれ、人々と接触できないように隔離する習わしがありました。
たとえば権力をもった部族の長や、新生児、生理中の女性などがそれにあたります。それらの『タプ』は完全に隔離して近寄らなければ問題はないのですが、実生活ではニアミスを避けられないこともままあるため、防護服のようにしてタパという布を使用していました。『タプ』のマナを封じ込めるため、そして己の身を守るために。そしてタタウにもタパと同じように、マナを持つ者の身体からそれの流れ出るのを防ぎ、タプでない者にとってはマナから身を守るバリアーとして機能する性質があるとされていたのです。
他の人と触れ合っても安全な状態になるということ、すなわち社会的人間になることに、彼等のトライバルタトゥーであるタタウはこのような形をとって関わっていたのです。成人儀礼とタトゥーの関連は世界的に多く見られますが、タヒチのこの風習もその中の一つですね。
現在タヒチで盛り上がっているトライバルタトゥーは彼等の伝統とはデザインが異なります。彼等はもともとまわりのマルケサスやマオリ、サモアほどに華やかな個性のデザインの伝統は持っていなかったからです。しかしそれこそが様々なスタイルを取り入れて進化していくタヒチタトゥーの面白さを支えているアドバンテージでもあるのです。
ポリネシアの中で唯一トライバルタトゥーの伝統を今日まで絶やすことなく守り抜いて来たのがサモアです。イノシシの骨を削って針にし、男性用のタトゥーデザインは『ペア』と呼ばれ、線紋様が帯状に折り重なるようなパターンが独特の雰囲気を醸し出しています。
ポリネシア地域におけるトライバルタトゥーカルチャーは、すべてそのルーツをサモアとトンガに持っています。古代サモアではタトゥーは宗教儀式と戦争に深く関わるものとして社会的に重要な位置にあり、それを施術する者は世襲によって定められた特権的な一族に限られていました。現在もその伝統を連綿と受け継ぎ続けているのがスルアペ家の人々です。
伝統的なサモア戦士のトライバルタトゥーはペア(pe`a)と言い、ウエストから膝下までをカバーするスパッツ型の形に定められたものです。女性の場合は手と脚に花のような幾何学デザインを彫るのが伝統的です。現在は動物の骨を加工して施術の針としているようですが、本来もっともそれに望ましいのは儀礼的重要性から人間の骨だとされており、それを鍬のような器具に取り付け、木槌でリズミカルに叩いて使用します。タトゥーの語源であるポリネシア語のタタウはこの叩きの動作のことを指しています。まさにポリネシアトライバルタトゥーの祖として、そしてタトゥーの祖としてサモアは位置づけられているということです。
さらにそればかりではなく、1980年代から始まったポリネシア諸部族のトライバルアイデンティティ復興運動は、各地に移住したサモア人コミュニティーから発信されたという経緯があり、それによって160年以上も死んでいた各地のトライバルタトゥーが復活したわけですから、救世主でもあると言えるでしょう。
ニュージーランドの原住民であるマオリ族といえば、かつての戦士の顔面に刻み込むように深く彫られたタトゥーが印象的で有名なのですが、現在、その螺旋紋様を白抜きにして残りの部分に様々な装飾をほどこすというデザインのパターンは洗練されていて、身体の各所に自由に対応する幅の広さを持ち、和彫りの見切り、バイオメカニカルなど、他のスタイルとの融合も積極的に行われています。
伝統的なマオリトライバルタトゥーはモコ(moko)と呼ばれ、顔面に施す形態を持ち、男性の場合、血族や社会的な所属集団を表す定まった紋様を顔の中心部分に彫り、顔の側面、耳の近くのエリアに個人を示すためのデザインのアレンジを配置していました。それはちょうど姓と名のシステムに等しいので、顔に氏名が示されていることと同じであり、ファッションというよりももっとアイデンティティに深く根ざしており、それと同時に敵味方を瞬時に見分けるための実用性を備えた戦士のためのサインであったようです。
女性は唇と顎に施術しましたが、顎のものは結婚しているということを示すサインであり、これもまた社会的な意味合いを帯びているものです。
他のトライバルタトゥーの文化を持つ部族達と比べてもマオリの人々のモコに関する誇りの高さは特別のような気がするのですが、それはこのような厳密なルールにもとづくアイデンティティの表現としての歴史が関係しているからなのだと思います。
また施術に使用した道具は針というよりも錐に近い形状で、現存するモコの写真を見てもそれはほとんどスカリフィケーション(傷痕)という印象なので、施術には相当な肉体的ダメージを伴ったことは明らかであり、そこからも厳しさが漂ってくるのを感じます。
一方、木彫りの工芸などに見るトライバルパターンにはとても洗練された美しさがあり、渦巻きデザインの法則性にはボルネオパターンとネガ&ポジのような関係も見えてきます。
今日のタトゥーシーンにトライバルというジャンルを確立させた立役者はマレーシアのボルネオ島のタトゥーデザインだったのではないかと考えています。90年代初頭の世界各地のタトゥースタジオでもボルネオスタイルのフラッシュは必ず置いてありました。白と黒が優雅に絡み合うバランスのとれた動き、身体のどのような部分にもフィットする自在性を備えたパターン。まるでフラクタル画像のように細部と全体が対応しているようにも見えます。タトゥーという動く芸術にとても適した紋様だと思います。
ボルネオ島にはダヤク(dayak)、イバン(iban)、カヤン(kayan)、ケンヤー(kenyah)など複数の部族が存在し、かつては首狩りの風習があったことでも知られるように互いに激しい闘争をくりかえす好戦的な生活を送っていました。ボルネオトライバルデザインには全般的に一定の法則をもった渦巻き状パターンがあると言えますが、それぞれの部族のデザインには共通性の中にありながらも独特の特徴があり、そこから闘争、交易という二つの異なった関係のなかで出来上がったアイデンティティの成り立ちを推測できるようにも思えます。
さまざまな技術と芸術性の高い工芸で知られるボルネオ諸部族ですが、特にタトゥーということで言えば最も人類学的に有名なのはカヤン族のものでしょう。女性のそれは4年以上の時を有する広範囲のもので、死後の闇を照らす明かりという宗教儀礼的に重要な意味を持ち、それゆえに彫師は女性のみでした。男性のものは特に意味付けされてはいないファッションとしてのものが大半でしたが、戦いで功績をあげた戦士にのみ許される勲章のような特定のデザインなども知られています。
ちなみに現在、ボルネオトライバルタトゥーとして人気のあるパターンの原型になっているのはイバン族のそれが多いように思えます。トライバルデザインのルールが比較的に明解に出ていること、さまざまなサイズに置き換えやすいことが現代のタトゥー事情にあうことなどがその理由なのでしょう。
彼等のタトゥーデザインは動物などの具体的なモチーフを一定の法則を持った方法で描くという点で、紋様というよりも絵画に近いという特色があり、そしてさらに他のトライバルタトゥーと一線を画す点として赤色の使用が挙げられます。北方民族であるハイダ族は日照時間の少ない生活によって、これまでに紹介してきた南の部族達よりも肌の色が薄く、赤色が映える条件が整っていたため、それを使用するようになったのではないでしょうか?
ハイダ(haida)族のアートとして有名な、生物を主として抽象的に表現するトライバルタトゥーパターンはカナダの太平洋北西沿岸部の諸部族、トリンギット(tlingit)やクワギル(kwakiutl)などにも同様に見る事ができますが、それらの生物と彼等を結びつけているものは、特定の生物が変化して自分たちの氏族の霊的祖先となっていると考える祖霊信仰です。
かたちあるものは滅びるが魂、精霊は残り続けるというアニミズムの思想が、生物が人間に変化しうるというアイデアを成り立たせているわけです。西洋の紋章や日本の家紋のような社会的役割をこれらの生物のトライバル柄が表しているのです。
タトゥーにおける非常にポピュラーなモチーフとして挙げられるのはなんと言ってもワタリガラスですが、それは彼等の神話の中で人類に知恵を授け文化をもたらすという大きな役を担っているためでしょう。カラスの仲間が高い知能を持っていることは周知の通りですから、これは日本人にもなんとなく理解できます。
他のトライバルタトゥーモチーフにしてもそれは同様であり、鷲は神や精霊と人とのあいだを自在に飛んで橋渡しできるもの、フクロウ首を傾げて考え事をしているようなので森の賢者、蛇は脱皮するので再生、熊は圧倒的な力、ビーバーは巣作りに長けているので家族の絆、狼は獲物を工夫して狙うので探究心、海の王者シャチは部族のリーダーの生まれ変わり、といった具合です。諸部族によって捉え方にすこしずつ違いもあるようですが、一様に見受けられるのはすべての生物を人に対するのと同じような敬意の視線で解釈しているところであり、それこそが精霊という概念をもって世界に接する彼等の思想のコアの部分なのだと思えます。
スペイン人が入植して来る以前の中南米のデザインには素朴でいてどこか陽気で、開放感にあふれたものが多い。ティカルでは生け贄の心臓を神に捧げる儀式が行われていたことがよく知られていますが、これはタトゥーやピアスの精神的原理を宇宙原理に拡張したものではないでしょうか?
紀元前400年頃に巨大文明を築き上げたマヤ(maya)族や、その後に成立し、スペイン人達の入植まで繁栄していたアステカ(aztec)族などに代表される中米地域の諸部族、そしてきらびやかな黄金の装飾品で知られるインカ(inka)族などの南米諸部族は、複雑な象形文字、正確な天文知識、高度の石造建築理論などを独自に持っていましたが、それらの体系はすべて彼等の神々に捧げられているといってもいいでしょう。
各地のトライバルアートもそのモチーフの多くは神との関係性を強くもっています。長らく謎に包まれていたそれらの文化も近年になり遺跡調査や文字の解読が進むにしたがってしだいにその豊かな内容が明らかになってきています。
血による購いというピアスやタトゥーなどに内在する精神原理もその一つです。そのような彼等のタトゥー文化がどのようなものであったのかを、正確に知るには今後の研究の進展を待つしかありませんが、世界中のトライバルタトゥーのデザインがそれぞれの部族の工芸美術とほとんどイコールの関係にあることから考えると、やはり現在まで残った石、木、布などの工芸品に施されたデザインには当然注目したいところです。
ヘナタトゥーの歴史は古く、アジアから中近東、アフリカまで、多くの地域で主に女性の装飾として様々なデザインとなって愛されつづけています。非常に大胆な発想のデザインが多く見られます。消えないタトゥーにもこの飛躍力は魅力的です。これをタトゥーに採用しない手はないと感じます。
中国、インドから中東圏を経て北アフリカまで広く高温乾燥地帯に自生するミゾハギ科の植物ヘナ(henna)、インド名メンディー(mehndi)の葉には、鮮やかな着色作用のあることが古来より広く知られ、それらの地域で主に女性達の文化としてテンポラリーなタトゥーや髪のカラーリングなど装飾素材として使用されてきました。
そこには多くのトライバルタトゥーの文化とまったく質を同じくする、デザインと呪術世界とのかかわりが見られ、ヘナの場合は使用者が女性であることから結婚、妊娠、出産にまつわる護符的役割のものとして施されることが多いようです。タトゥーとの違いは身体の新陳代謝の働きによって2~3週間で色がぬけるという点です。
古代エジプトの洞窟壁画に描かれた人物にはトライバルタトゥーを思わせる模様が皮膚上にあることが知られていますが、これに関してはヘナで身体を飾る風習が当時から存在していたことの証左であるとする説もあり、そうなると8千年以上もの歴史があるということになりますね。
日本のトライバルタトゥーとしては、ごく近年まで習俗としてそれが行われていた琉球(沖縄)とアイヌ(北海道)の記録を挙げることができます。琉球では女性の手の甲と指に施されていたものが主流ですが、その中の宮古島では前腕部の記録も残っています。特に宮古島のパターンはサモア、フィリピンなどの南洋諸島の女性のものとの強い類似性をもっています。アイヌの場合はこれもやはり女性なのですが、前腕、手の甲、眉、口の周辺に彫っていました。アイヌの施術法は世界のトライバルタトゥーの中でも珍しい部類に入る、カミソリなどの刃で皮膚を切り裂き、その傷に煤を擦り込むというものでしたが、これには北海道が切れ味抜群の良質の黒曜石の産地であったことが関わっているような気がします。また口のまわりに施すパターンは台湾のアタヤル族女性のそれとよく似ています。
琉球、アイヌともにタトゥーの意味としては、呪術的側面としては死後の旅立ちをサポートするもの、社会的側面としては結婚可能な女性であることの信号、同族外の男にさらわれないためのガードなどの理由づけがなされていましたが、対象者が女性ということもあり、やはり何と言ってもファッションとしての力がその存在意義だったようです。どちらの地域でもかつては男女とも施術していたようなので、近年の資料に残された状況は、明治政府による禁止令という出来事以前に、すでにその文化が消え行こうとしている最後の灯火だったのかもしれません。
南北のアメリカや南太平洋諸島では西洋との接触によってトライバルタトゥーが消えていったのですが、東アジアにおいてその分布域を考えた場合にはやはり中華文明との地理的、政治的な距離との関係が見て取れます。部族的カルチャーは文明が波及してくるとそれに飲み込まれてしまうことが多いわけです。こういった事情を考えると、縄文時代後期以降、複数回に及ぶ大陸からの人の流入によって形質、文化ともに大きな変化を遂げていった本州、四国、九州といった地域と比較して、それらの外側両端に位置する琉球とアイヌは縄文人の形質、文化がより色濃く引き継がれいるためにそのトライバルタトゥーも近年まで残り得たのではないかと推測しています。したがって同時に縄文期の土偶や仮面に見られる身体装飾模様にはその時代、地域のトライバルタトゥーを表しているものがあるとも考えています。
かつて北方モンゴロイドの一群は氷河期で陸続きだったシベリア、アラスカ間を渡り北米、中米、南米と移住して行きました。何万年も前のことです。そして現在資料で見るかぎりでもそれらの地域にはほとんど万遍なくトライバルタトゥーの文化が散らばっていました。それこそ秘境の原始人みたいな部族から高度の社会システムを築き上げたマヤの人々にいたるまで偏りなくです。そのことから、タトゥーの技術は氷河期が終わりシベリアとアラスカが海によって隔てられて以降に域外から流入したり、あるいは偶然新大陸のどこかで発明されてそれが周辺に伝播して行ったと考えるよりも、移住のはじめから持っていたと考える方が自然だと思えます。つまり氷河期の昔にはすでにあったと。
他方で北方モンゴロイドはアジアの南にも進出して行き、大陸から台湾に移った一群の中から長距離の航海術をもってフィリピン、インドネシア、メラネシアからミクロネシアやポリネシアへと広がっていく者達が現れたことが遺伝学的、言語学的に考えられています。それらの移住もやはりタトゥーの技術を伴うものでした。トライバルタトゥーの習俗を持った北方モンゴロイドによる環太平洋の連鎖。日本もかつてまぎれもなくその一部であったのだと思います。
引用
著書:「traibal tattoo designs from the americas 」出版:mundurucu publishers
著書:「traibal tattoo design」出版:the pepin press
著書: 吉岡郁夫「いれずみ(文身)の人類学」出版:雄山閣

































